
こちらのまとめの補足用となる記事です。
「ゲームの歴史」では「他のメーカーを持ち上げるために」セガを落とすような記述が目立つ
セガのファンの人たちが怒っている部分として、「バーチャファイター2の偉業」が「むしろ失敗であった」かのように語られているシーンが挙げられます。
このように、セガは任天堂だけでなく、ナムコなど他のものをほめるためのダシのように使われるのです。
セガ自身が褒められるところは全くなく、それが愛ゆえにだったらいいんですけど、「あまり理解しているように思えない」のが火に油を注ぐような感じになっていますね。
いきなり「デザインの面でナムコはセガに大きく勝っていた」という結論からスタートする
セガが1章まるごと使って落とされていたのは10章(p30~p56)ですが、
11章のプレイステーションになってもセガを落とす話は止まりません。
引用部分はp69からスタートします。
デザインについて言うならこの当時、単純にナムコはセガに大きく勝っていました。そのことも家庭用ゲーム機においてナムコのゲームがセガのゲームを引き離した大きな要因と言えるでしょう。
ちなみに、本当にこの当時ナムコのゲームがセガのゲームを大きく引き離していたかはとくにソースがありません。
「ナムコの背景はセガの背景より世界観の演出で上回っていた」という説が提唱される
これについては作者の「感想」なので、否定するのは難しいのですが背景の美しさについて、だれの目から見ても差が歴然であったかのように語られるのは相当つらいものがありますよね。
デザインの差は何よりゲームの背景に端的に現れました。前章でも述べたようにセガはアーケード版バーチャファイター2においで背景に3 D を導入します。同社は何よりも最先端技術を用いることを重視していたため当然のようにそうしました。またそうすることはユーザー(セガ信者)に対する誠意だとも考えていたのです。これに対してナムコは、技術的には鉄拳2でも「背景を3 D にできたにもかかわらずあえて2Dのままにしました。これによってバーチャファイター2と鉄拳2では背景の美しさに大きな差がついたのです。
ではどのように差がついたのか。パッと考えると3 D の背景の方が美しいようにも思えますが実際は真逆でした。2 D の方が 3D よりもずっと美しかったのです。なぜそのような差が生まれてしまったのでしょうか。ナムコの背景はセガの背景に比べてどのように美しかったのでしょうか。
この本は小学校高学年~中学生くらいを対象とした本になっているため、さすがにこういわれたら信じてしまう人も多いと思います。でもよく考えたらこれただの作者の「感想」なんですよね。しかも、この感想を歴然たる事実のように語った上で、その理由を語り始めてしまうわけです。
鉄拳2とバーチャファイター2の背景は「ゲームの歴史」においてどのように比較されているか
まずはバーチャファイター2の話です。
まず当時の3 D はまだ最新技術であったぶん「十分に描画のノウハウがねられていない」という側面がありました。「枯れていない技術」なので美しいビジュアルを作ることの知識や経験がまだまだ蓄積していなかったのです。それに比べると2Dはもう十分に「枯れた技術」でした。そのため美しく描くことのノウハウが溜まっており3 D よりも安定的に美しい絵を描くことができたのです。
またそれ以上に重要なのが、背景を描く際の世界観の構築が3 D より2Dの方がより自由だったということです。「バーチャファイター2」の背景は、最先端技術であるところの3 D であることを誇示する必要性から、3 D らしさにこだわりました。象徴的なのが対コンピューター戦でシュンというキャラクターと対戦する際の「大河」ステージです。
こんな感じのステージです。
シュンステージについて以下のような説明がなされていました。
戦う場所が大河を進む筏の上に設定されていて、その船が進むにつれて岸辺の建物も後方に流れて行きます。やがて川に架かる橋が現れ、船がその下をくぐり終えると、再び岸辺の景色が見えるようになります。そういう演出を施すことによってプレイヤーは背景が3 D であることをより強く感じることができました。
そうしたメリットがある一方でこの方法には大きなデメリットもありました。それは立体的な橋を描かなければならないために、それ以外の描き込みが単調になってしまうということです。橋という存在を強調しなければならないぶん、世界観を描くという要素が犠牲になりました。実際、橋の下をくぐる時は延々と橋の裏を見させることになります。最初は3Dであることも驚きからそれも楽しかったのですが、慣れてくるとそのデザインの単調さに世界観の薄っぺらさを感じてしまいました
そして、ここからは鉄拳2の話です。
どちらも当時の技術ではすごいなと思いますが、バーチャファイター2が一方的に劣っているとは到底思えないですよね…。
これに対してゲームの歴史では以下のように語られるのです。
それに比べると2Dの背景はもともと書き割り(演劇ので背景を一枚の平面に描いた大道具のこと)のような平面であるためデザイナーは描くことだけに集中できます。そのため橋の裏のような単調なデザインは慎重に避けられ、何度見ても飽きないような奥深い世界観が表現できたのです。それによって「鉄拳2」は「バーチャファイター2」よりも奥深い世界観を構築することに成功し、その人気を後押ししました。
えー。マジでーってなるじゃないですか……。
いや、バーチャファイター2の方が鉄拳2より売れてるジャン!?
しかも、アーケードはもちろん、家庭用ですら、少なくともバーチャファイター2と鉄拳2を比較するとバーチャファイター2の方が売れてるんですよね。

じゃあ、この「ゲームの理論」で語られてる話っていったい何だったの?ってなります。
3章あたりで述べていた「ゼビウス」のすばらしさをもう一回語るために、事実関係を棚に上げてこういう話をしたのでは……
ナムコという会社はそんなふうに最先端の技術を捨ててでも奥深い世界観を表現することにこだわりを持っていました。それはゲームに初めて世界観を導入することによって歴史的な傑作となった「ゼビウス」以来の同社の伝統と言えるでしょう。そこには「ゲームの面白さを下支えするのは奥深い世界観とそれを表現する背景にある」という確固たる信念が貫かれていたのです。
どうもこの作者さんは、自分の理論の方が現実よりも大事になってしまうところがあって、ゼビウスのヒットもゲーム性とかよりも背景の美しさや世界観が理由だという風に前の章で述べてるんですよね。
そして、セガはそれがわかってなくてナムコはそれがわかっているということにしたい。
だから、バーチャファイター2は鉄拳2に売り上げで負けたことにしたがるし、さらにその理由は背景とか世界観が悪かったということにしたいのではないかと勘繰ってしまいます。
それはもう歴史と違うのではないでしょうか……。
さらに暴走は止まらず、「ナムコ上げセガsage」が続きます
すみません、この辺りはテキスト整形が面倒になったのでいったんそのまま載せておきます。
さらに、「バーチャファイター2」の背景を3 D にしたことにはもう一つのデメリットもありましたそれはキャラクターと背景が混ざり合って視認性が下がったということです格闘ゲームにおいて何よりも重要なのは言うまでもなくキャラクターです。背景はあくまでも背景なのでそれほど目立ってはいけません。それにもかかわらずバーチャファイター2の背景を3Dにしたため、避けがたく目立つようになってしまったのです。それによってキャラクターの視認性が下がりゲームの難易度はさらに高まってしまいました。そんなふうにバーチャファイター2は背景を3Dにしたことのデメリットが重なりました
一方鉄拳2の背景は2 D を採用したことで世界観を表現することが得意という自社の強みを最大限活かすことができたのです。しかもこのこのなんかポリゴンに貼り付けるテクスチャ単純な画像模様のデザイン性を極限まで追求していました。つまり2 D の表現の技術と経験がかつてないほど高まってもいたのです。そのため鉄拳2の背景はその技術と経験を存分に活かし文句なく美しいものに仕上がりました。
この技術と経験は鉄拳2だけではなくもう一つの3 D ゲームの柱でノリッジレーサーシリーズにおいても発揮されました。ナムコは格闘ゲームだけではなく、レースゲームにおいても2Dの背景を作ると仕上げることでより深い世界観を表現することにこだわっていたのです
明らかに事実に則していないのではないかとおもう記述が続きますが、このあたり「作者の感想」なので誰もツッコめないという事態になっていますね。
そして、いつの間にか「3D」よりも「3D+2D背景」の方が優れていたということになり、このまま12章・13章へと突入していきます…
ここで止まっていれば、いったん章が変われば仕切り直しもできます。
しかし、作者はこの章で生まれた謎理論を、そのまま後の章に引き継いでいってしまいます。
このように、デザインというのは全ての最先端技術で行えば良いものができるというわけではありません。
当時は「3 D + 美しい2 D」 の方がより美しく見える最適解であるケースの方が多かったのです。このデザインの圧倒的とも言える優位性が、ナムコ作品のヒットひいてはプレイステーションのヒットに繋がりました。またそのヒットを通して、多くの後続クリエイターがナムコが証明したデザインの重要性に陰に陽に影響を受け、次々と美しいデザインの作品を生み出していくことにも繋がったのです
ポケモンについて語っている9章でもそうでしたが、「ゲームの歴史」の著者は「自分の理論」で勝手にナムコの製品を語ったあげく、ナムコの製品がヒットしたのだから僕の理論はナムコの成功が証明している!みたいな詭弁を平気で使いますよね……。自分で書いてておかしいと思わないんだろうか。
その結果、12章・13章でさらに頓珍漢な理論が展開されることになり
特に13章「3Dをめぐる攻防」では、その頓珍漢な理論が主役になって
いろんな作品の評価に押し付けられていきます。
これは……ゲーム作ってた人からしたらたまらないでしょうね。
余談:ゲームの歴史の著者は「セガのことは適当に落としてネタにしても良い」と考えているのではないかと疑ってしまう…
セガやセガファンはよく自虐的なことを言うので、なんとなくネットでは「セガ(およびセガ信者)は弄ってもよい」というノリがあるように思っている人は多いのかもしれませんが、ここら辺はオタクの感覚が重要です。
基本的に自虐ネタは、めちゃくちゃ内輪ノリなので、外部の人がうかつに便乗すべきではないし、オタクの人も外部に安易にそれを見せないほうが良い。これ重要。
確かにオタクは「仲間内では」自虐をよくやります。あと、自分で自分の事をキモオタと読んだり、いろいろと自分たちを下げるような表現を取ることが(特にオールドオタクには)多かった。ただ、これは逆にいうと同じ文脈を共有していることを確認する儀式であって、「部外者がよくわからずに自分たちの大切なものをネタにして適当に弄ってよい」というわけではないのですね。
なので、セガファンに限らず、オタクというのは自虐ネタをやったりするし、別にイジりそのものは全然否定してませんが、「イジってくる人がどういう人間か」というのは見られていると思っていたほうが安全だと思います。
人を怒らせるための最も効果的な方法、それは「その人にとって大事に思っていること」を「素人が知ったかぶりで語ること(肯定否定を問わない)」「その際に本題と関係のない容姿の話に触れるとなお効果的」
このゲームの歴史という本は、そのあたりでいろんな人の地雷を踏みまくってるなあと思いますね……
このあたりのオタクの空気感がとてもよく出ていたと思うのが、「メイド諸君!」というマンガです。
この漫画はメイド喫茶が舞台のマンガです。
1巻においてメイド喫茶に通っているオタクたちは自分たちのことを卑下するようなことを語っていますが、一方で、「オタク外から冷やかしに来た客」がメイド喫茶を雑にこきおろすような話をしている時には、不快感をあらわにするシーンがあります。
オタクというのは割とこういうところがあります。そしてそんな中でもセガファンはかなり愛が深い印象があります。
なので、部外者がセガファンのノリをみて同じようにセガ弄りをやるというのはあまりお勧めできないです。まして、そのセガ弄りがセガいじりだけでとどまればまだしも、「他のメーカーを持ち上げるために」セガを落とすようなことを言うのはかなり危険な行為であると言えるでしょう。
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